観光情報
馬越恭平生家(うまこしきょうへいせいか)
後に大日本麦酒の社長に就任し、「日本のビール王」と呼ばれるなど、まさに日本実業界の重鎮となった馬越恭平は、代々医者の家系に生まれました。
13歳で丁稚として大阪に出るまでを過ごした生家が、現在も木之子町に残っています。
基本情報
所在地 | 岡山県井原市木之子町 |
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TEL | 0866-63-3144(問合せ先:井原市文化財センター) |
アクセス
アクセス |
【車】山陽自動車道笠岡ICより北へ30分 【電車】井原鉄道井原線井原駅よりタクシーで10分 |
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駐車場 | 無し |
馬越恭平(うまこしきょうへい)
1844生~1935没。
井原市木之子町西郷で代々医者の家系に生まれた馬越恭平(うまこし きょうへい)は、8歳にして興譲館で学び 『朗廬より「正直」の二字を教わった』と彼が晩年にいたってよく口にしていたそうです。
13歳で大坂に出て、一時鴻池の丁稚となりましたが、まもなく播磨屋の養子となりました。
当時、25歳ながら東京実業界で名前が知られ始めていた益田孝が播磨屋に滞在中、馬越の商才、胆力などを見抜き、親しく欧州各国の事情や東京実業界の現状などを話し、当時益田が読んでいた「西国立志編」を読むように馬越に勧めました。 馬越は後に『私が今日あるのは「西国立志編」の賜である』とよく語ったそうです。
馬越はその後、益田が関与した造幣局の夜学校で英語を学んだ後、益田に頼み込み明治6年(1873)、上京して井上馨の先収会社に入社しました。 先収会社とは井上馨が官を離れた時に設立した会社で、自身が総裁に、社長に益田孝が就任しました。この会社はまもなく解散の憂き目にあいましたが、馬越はこのとき3000円という破格の手当をもらい、いったん郷里の木之子に帰って、衰微していた生家の再興をはかり、両親の生活の安定を見届けた上で、再び上京し、旧三井物産(先収会社と三井国産方の合併会社)にそのまま入社しました。
明治10年に横浜支店長、17年に本社美唄方、26年に常務理事、翌27年には初代綿花部長になり辣腕をふるっていました。
明治34年清国との外交問題などの影響で軍備増強を目的に「麦酒税」が導入されました。その為、ビール業界間で競争・再編成の波が起こり、小さい醸造所が姿を消し、日本麦酒、大阪麦酒、札幌麦酒が合併して「大日本麦酒株式会社」が誕生しました。 前身の日本麦酒は、三井が大株主だった関係上、当時旧三井物産の理事だった馬越を経営陣に迎え難局に当たらせる事になりました。
明治25年5月、三井物産の重役でありながら、請われて日本麦酒の重役に就任しました。馬越自身は旧三井物産の仕事よりも麦酒業界での仕事の方が忙しくなり、結局、旧三井物産を退職し、大日本麦酒が誕生した時、その社長に就任しました。 ビールを売るためにいろいろとアイデアを出し、銀座にビアホールを作ったのも馬越でした。 馬越時代の大日本麦酒は発展を続け、市場シェアは79%に達し、馬越は「日本のビール王」といわれるまでになりました。 明治31年には代議士におされ、大正13年には勅撰されて貴族院議員となるなど、89歳の高齢にいたるまで国事に奔走しました。
馬越は郷土を深く愛し、度々墓参に帰郷し、帰郷すれば必ず郷土の教育や土木に多額の金品を贈って、郷土の繁栄を念じていました。現在は新しく作られましたが、その代表的な物として馬越の名前が付けられた「馬越橋」があります。
※馬越恭平の肖像は「井原市史II」より転載しました。
※本文は「崑山片玉集」を参照・転載しました。